今はね、どの教えだけが正しいということではなく、全部が方便なんじゃないかという立場なんです。
仏教の教えは”方便”でしか説けない
――すべての教えが方便、ですか?
お釈迦さまは、子どもを亡くして悲嘆にくれる母親に「子どもを生き返らせてください」と言われて「人が死ななかった家からカラシの実をもらってきたら生き返らせてあげますよ」と答えています。でも「人が死なない家」はありませんよね。その事実に気づかせて、子どもの死を受け入れさせるために「生き返らせてあげますよ」というウソ、つまり方便を使うわけです。一方で、出家した人たちには、この世において生も死もないと説きます。一見バラバラなことを言っているように見えますが、究極のところは人間世界の判断のレベルを超えたところにあるから言葉では説けないので、相手のレベルに合わせていろいろな方便を使うのは当然のことだと思うんです。
――究極のことは言えないけれど、そこに導くために「方便」があるんですね。
人間の脳は、「ありありと思ったこと」と「現実に見ているもの」の差がわからないそうです。あまりにもリアルな夢を現実だと思いこんでしまったりするでしょう? ということは、この世界も本当のところは全部幻想だということになるかもしれません。何かを見るというのは目を通して光を電気信号に変え、それを脳が信号でイメージとして組み上げているわけですから。同じ理屈でいけば、浄土や仏もあり得ると思います。強く強く、阿弥陀仏や浄土をイメージして植え付ければ、それに救われることもあるんじゃないかな。全部、方便なのであれば効果のあることはやればいいと思っているんですね。信仰を持って不安がなくなるのであれば、不安におびえて生きているよりずっと幸せです。それで世の中が良くなるのであればいいと思います。